イングランドで全住民対象PHRが稼働

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年末の英国BBCニュースは、英国NHS(国民保健サービス)がイングランド全住民を対象としたPHR「NHS Care Record Service」 (CRSと略す)のローンチを「最初の患者電子記録が新しいNHSオンライン・データベースにアップロードされた」と伝えた。これは予算総額120億ポンド(約2兆5千億円)に上る英国医療ITプログラムの一部分を構成するもので、現時点では、おそらく世界最大規模のPHRになるものと思われる。

今後、CRSは「アーリー・アダプター・エリア」と呼ばれる初期導入テスト地域を皮切りに、数年間でイングランド全域に展開されて行く予定。医療IT化の国家プロジェクトとしては、米国のNHIN(National Healthcare Information Network)などに先駆けるものとして注目される。米国NHINは目標達成年次を2012年2014年としているが、進捗状況は大幅に遅れており、実は稼働の目処さえ怪しくなってきている。それに比べると、英国のCRSの方は見る間に実現された。これは医療制度の違いということもあるかもしれない。英国の医療制度は病院トラストを中心とする「国営医療」だから、命令一下、有無を言わさず、すべての医療機関に参加を強いることは可能である。

さてこのCRSであるが、全住民の個人医療記録を「Summary Care Record」と「Detailed records」の二つの層で管理している。「Summary Care Record」は以下のように、基本デモグラフィックデータとNHS傘下の複数の医療機関で受けたケア記録からなる。

  • 氏名、住所、誕生年月日、NHSナンバー
  • 薬物、アレルギー、検査結果の詳細
  • ぜんそくや糖尿病などの症状の詳細
  • これまでに受けた治療や手術の所見
  • ケアの計画案や助言

CRSの患者側メリットしてNHSは次の諸点をあげている。

  • 医療スタッフが、あなたの医療・健康履歴のより正確な全体像を把握できる
  • 医療スタッフが一層効果的なケアを提供するために、より迅速にあなたの記録にアクセスできる。
  • 平常時以外や緊急時に、あなたにより良いケアを提供することを助ける重要な情報を医療者が利用できる。
  • いつでもどこからでも、ウェブサイトを通じてあなたの医療記録にアクセスできる。

ところでこのCRSにおいても生活者・患者側の「自己情報コントロール権」が重視されており、生活者・患者はこのCRSから「オプト・アウト」(離脱)する権利や、特定の者のみにアクセス制限をかけることが認められている。現状では、オプト・アウト率は非常に低率であるとのことである。

しかし、BBCニュースの報道の仕方を見ても、「プライバシーとセキュリティ」という視点からCRSに付きまとう各方面の「不安」や「疑念」を中心に取材している。つまりPHRなど医療IT化によって受ける生活者・患者の恩恵よりは、常に「プライバシー&セキュリティ」問題が呼び出され、立ち上がり、クリシェ(常套句)化してしまうような報道文脈があるが、これにはいつもながら違和感を持ってしまう。このような「クリシェ」を持ち出せば済むという怠惰な精神は、何も新しいものを生まないのだ。無論、「プライバシー&セキュリティ」の重要さを否定するわけではないが、さりとてたとえば、我が国のあの「個人情報保護法」制定時のような、マッチ・ポンプ式の大騒ぎに巻き込まれるのはご免である。あの時、「個人情報保護法で医療は大きな影響を受ける」とか騒ぎながら、後で「医療側の過剰反応は問題だ」などとマジメ顔で恥ずかしげもなく言っていた輩やセミナー屋の類には、ただただ苦笑するしかなかったのである。

そう言えば、わが国では不幸にして個人情報保護法、住基ネット関連法、通信傍受法がほぼ同時期に審議されたせいもあり、個人情報保護法が当初の目論見から大きく脱線してしまった経緯がある。個人情報保護法はCRSのように本来個人の「自己情報コントロール権」を根幹とするはずであったが、住基ネットや通信傍受法にともなう「大騒ぎ」の影響を受け、包括的なプライバシー保護法としては骨抜きにされたのである。情報をコントロールする個人の権利ではなく、個人情報を扱う関連業者が守るべき単なる義務細目へと格下げされたのである。つまり、日本では本格的にプライバシーを論じる契機が摘み取られたということだ。だから「プライバシー&セキュリティ」という単なるクリシェが、表層を覆い尽くすような奇妙な言説空間が出来上がってしまった。

イングランドCRSの「オプト・アウト権」を手がかりとして考えたのは、この日本でも、一度徹底的にプライバシー問題を、さらにセキュリティ問題を深く議論し考察する機会を作るべきではないかということ。クリシェやマッチポンプ屋のノイズを超えていく必要があるだろう。でないと、日本ではPHRもEHRも成立しないことになってしまう。

三宅 啓  INITIATIVE INC.


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