消費者の医療観

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毎年11月23日には、秩父宮ラグビー場でラグビー早慶戦を観戦するのが当方の恒例行事となっている。例年この時期になると、外苑の銀杏並木は美しく色づき、落ち葉散り敷く歩道を歩いてグラウンドへ向かうのは楽しい。これまで30数年間ラグビー早慶戦を見て来たが、無論、早稲田を応援するためである。

今年のゲームは例年になくミスが多く、またルール変更のためかキックの応酬が多すぎたのが興ざめであった。特に前半は慶応のキック多用の戦法に付き合いすぎてエリアを確保できず、フラストレーションのたまる展開であったが、後半20分からの三連続トライに溜飲が下がった。特に早稲田右ウイングのスピードに乗ったパワフルな激走を見て、胸のすく思いがした。

さて、先週、麻生首相発言を受けて書かれた「医師会には社会的常識が欠落している人が多い」(池田信夫ブログ )だが、多数寄せられたコメントの議論が充実して読み応えがあった。これまで日本の医療をめぐる議論には、何か自由闊達に議論するという雰囲気が欠落していたと思われる。硬直した制度設計や閉鎖的なアカデミズムに対して、何か物を言うこと自体が空しいと感じられたり、あるいは医療とその周辺の言説空間というものが妙に歪曲しており、言葉が素直に伝達しないようなもどかしさがあったのではないか。そのような閉塞感を、皮肉にも、ある意味破ってくれたのが麻生発言であったのかもしれない。多くのコメントを読みながらそんな感想を持った。

特に現在、消費者側の医療に対する見方は、医療界内部の医療観とは相当の開きがあると考えて間違いないだろう。おそらく医療界が内部で考えているようなレベルとはまるで違って、消費者は非常に辛辣に手厳しく医療を見ているのであり、そのことに早く医療者側は気づいた方が良いだろう。これは医療に限らず、サービスの受け手と提供者の間に常に存在するギャップであると言えるが、通常どの産業においてもこのギャップを認識し埋めることにかなりの努力を払っている。だが、どうも医療はそうではないように見えるのだ。たびたびこのブログで批判してきたが、たとえば消費者に「死生観を持て」などと説教するような医師が存在したりする。つまり、まさに伽藍の高みから説教するような「伽藍的なコミュニケーション」がいまだに医療に支配的であるとすれば、やがて消費者から見放されてしまうだろう。これは「立ち去り型サボタージュ」などということよりも、ひょっとするともっと深刻な事態であるかもしれない。これについては、また別エントリで考察する。

三宅 啓  INITIATIVE INC.


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