ニュートン力学の医療情報観から知識・情報のブリコラージュへ

先月末から、TOBYOトップページに「日本の闘病記10000」とのヘッドラインを掲出している。現時点の収録病名数は657で、実際に闘病サイト情報を公開している病名は555を数える。一応、これで闘病情報の量的確保という初期の目標は達したと言えるのだが、収録サイト数が1件しかない病名が106もあり、これらを複数件にしていく努力は続けなければならない。また、どんどん新しい治療法や薬剤が登場しており、特にがん治療などでは「半年待てば、新しい治療法が登場する」と言われるほどのスピードで技術開発が進行している。つまり、最新の闘病体験を収録する努力も必要になっている。

まず、収録サイトが1件しかない病名の複数サイト収録だが、収録サイト数は多ければ多いほど良い。なぜなら、それだけユーザーが情報を比較し選択する余地が広がるからだ。これまで医療情報の提供と言えば、「情報の信頼性、確からしさ」という問題がセットで論じられるのが常であった。そしてある意味で、この「情報の信頼性、確からしさ」という決まり文句を言い放った時点で、それ以上さしたる具体提言も進展もないままに、これらの問題は終わってしまったかのごとくであった。これがいわばHealth1.0の医療情報観であり、結局これらの人々は、オーソリティや何の根拠もない「倫理コード」などを持ち出して、まるで「医療情報の正しさ」の番人でもあるかのように振舞って来たのだ。

だが、「絶対的に正しい知識、情報」を一体誰が持っているのか。誰が言えようか。科学であれ医学であれ、それらは「絶対的に真なる知識の体系」ではない。それらは所詮、当面の相対的な正しさは主張できても、いずれ新しい知識に取って代わられるかもしれない。それは臨床の現場で「100%の安全と治癒」を保証できないのと同じことである。医療情報に関わる「倫理コード」などを持ち出し、「正しい医療情報」を追求すると称している人たちは、「絶対かつ普遍なる真理」の存在を主張するような大昔のニュートン力学の信奉者ではあるが、量子力学の現代には最早通用しないということを早く悟るべきだろう。今日、「絶対的に正しい知識」を樹立することよりも、「相対的に正しい情報」を取捨選択することが医療情報提供に求められているのである。

個々の患者の闘病体験は、医学全体の知識の中では部分的な知識であり、あやふやな情報であるかもしれない。だが、それら「部分的な知識・情報」であっても、多数の人々の知識・情報・体験と比較参照できれば、レヴィ=ストロースが述べたようにそれなりにブリコラージュ(器用仕事)できるのだ。逆に、「完全なる医療情報を厳密に把握する」ということのほうが非現実的であるといわなければならない。「常に正しい医療情報」を把握している「個人」など存在するはずもないからだ。

闘病者は医療について、部分的で断片的な知識や情報を持つに過ぎないが、闘病者同士が相互にネットワークされていれば実際にはそれで十分やっていける。「完全なる医療情報」などを持たずとも、自分に必要な病院や治療方法を選択することもできる。だが、そのためには、それら闘病に関わる知識・情報が十分に量的に確保されて、自由自在に比較対照できるようになっていなければならない。もちろん主治医と相談することも必要だろう。

そのような意味合いで、TOBYOにおいても病名ごとの収録闘病サイト件数は単数ではだめであり、様々に比較対象できる量を十分に確保しなければならないのだ。そしてHealth1.0時代が「唯一、絶対正しい情報」という硬直した医療情報観を持っていたのに対し、Health2.0では、多数の人々が持つ部分的な知識・情報・体験が、ネットワークによって比較対照されブリコラージュされるような、そんな動的な医療情報観へと変えられねばならないのだ。

三宅 啓  INITIATIVE INC.


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