パッケージからデータベースへ

先週、TOBYOが国会図書館Dnaviに収録されるというニュースをお知らせした。このことの意味を考えながら思い出したのは、6月初め日経新聞に掲載されたTOBYO紹介記事のことである。あの記事では、たしかTOBYOを「患者体験データベース」みたいな表現で紹介していたのだが、実はそれを読んで大きな違和感を感じていた。これまで「データベース」という言葉でTOBYOを考えたことがなかったからだ。

だが、今回の国会図書館Dnaviも「Deep Webにおけるデータベース」との表現によって、やはりTOBYOを「データベース」と見ているのである。「他人から見ると、そう見えるのか?」との意外感があるのだが、この他人のTOBYO観も一概に否定すべきではなく、そこに何か、新たに学ぶべき視点があるような気がしている。

TOBYOにはウェブ闘病記に対する二つのアプローチの仕方がある。ひとつは、ウェブ上の闘病サイトを可視化すること。これはウェブ闘病サイトを病名ごとに分類し、その概要とありかを簡単に調べることができる機能である。「図書室」の比喩でこの機能を表現している。そしてこの機能を使ってユーザーはサイトを訪問し、まるで一冊の書物を読むようにウェブ闘病記をシーケンシャルに読み進むことができる。そして二つ目のアプローチの仕方であるが、これはウェブ上の闘病記の全ページをインデクシングし、ユーザーが探している情報を瞬時に全文検索する機能である。

以上の二つのアプローチの仕方を改めて考えてみると、まず「図書室」で比喩されるアプローチ方法では、闘病サイトを「闘病者の体験と知識のパッケージ」として見ていることになる。対して二つ目のアプローチは、画然と一冊ごとに分けられるようなパッケージとしてではなく、いったんそれらの装丁をほどき、ページをばらばらにした上で、改めて渾然と一体化された「体験と知識の集合体」を作る作業に似ていると言えるだろう。

「パッケージと集合体」の差異以上に、両者の間には歴然とした違いがある。まずそれは、前者には存在し特定できるはずの「作者」が後者には存在はするが特定はできない、ということだと思われる。前者では「作者」が時系列に配置したイベントのシークエンスが「ストーリー」として展開されるのに対し、後者では行為の主体とイベントの関係は必ずしも判然としないばかりでなく、時間の前後関係は寸断され、「作者(主体)」よりもむしろイベントのほうが意味を持つという事態が起きると考えられる。

このように考えると、「闘病記=人間が書いた手記」というものを大量に集めてそれを「データベース」化するということは、本当はこれまでわれわれが考えていた以上のことなのかも知れない。まだその可能性のほんの一部分しか、われわれには見えていないのかもしれない。たとえばテキストマイニング技術などは、それら可能性の一端をわれわれに開いて見せているのだろう。未踏領域の存在を「データベース」という言葉が教えてくれているのかも知れない。

三宅 啓  INITIATIVE INC.


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