パブリックという概念をめぐって

先日、英国の医療家系図による新サービス「MyFamilyHealth」を紹介したが、考えてみればこれは、数年前に米国HHS(保健社会福祉省)公衆衛生局と国立ヒトゲノム研究所が共同開発した「My Family Health Portrait」を焼きなおしたものと言えよう。家系図という分かりやすい概念を使って、遺伝子情報の公衆保健サービスへの利用を促進しようというこの米国政府プロジェクトは、今日から見てもたしかに先見の明があった。

ところで、このような遺伝子情報をベースにした医療家系図サービスを日本で実施するとしたらどうだろうか?。おそらく遺伝情報や家系情報などプライバシーにかかわる情報を「公衆衛生」という名のもとに利用することに対して、相当の反発が立ち上がるのではないだろうか。またこのことは、日本における最近の「GoogleMapsストリートビュー論争」などとも無関係ではないような気がする。

これらの問題は、プライバシーとパブリックという二つの対立概念をどのように理解し、それを具体的なテーマにどのように適用するかという問題に帰着する。そう考えてみると、プライバシーにせよパブリックにせよ、どちらもあいまいな定義しかされていないのに気がつくのだが、とりわけパブリックに関しては、これまで日本できちんと概念定義されてこなかたのではないか。

たとえば「Public Relations」である。これは終戦直後にGHQ(General Headquarters)が日本に持ち込んだ言葉であり、普通「広報」と訳され、また「PR」と略称されてきた。だが「PRする」と言えば「広告する」という意味にしばしば誤解されるように、実は戦後一貫してこの「Public Relations」という概念は日本できちんと受容されてこなかったのである。終戦直後日本の産業社会には、米国からマーケティングとPublic Relationsという二つの重要な概念が持ち込まれたのであるが、マーケティングがその後日本に広くあまねく定着したのに対し、Public Relationsの方はついに定着しなかったと言われている。

なぜ定着しなかったかと言えば、「パブリック」というもともと日本語にない言葉を結局わかりやすく説明できなかったからだ。ある時、当方が親しくしてもらっている「日本の広報の大家」である先輩氏に、この問題を相当執拗に質したことがあった。するとやはり「日本ではパブリックという概念を説明することができなかった。「広報」という訳は本来の「PR」とずれている。」という返答であった。

たしかに「Public Relations」を「広報」と訳してしまうと、「パブリック」という言葉の持つニュアンスは消失するだろう。また「パブリック」を「公共性」と訳してしまうと、今度は何か「公権力」と同一視するような粗雑さを感じてしまう。そもそも日本の「公」という概念と「パブリック」とは微妙に違うものだ。

だから、このようなパブリックをめぐる「わかりにくさ」に対し、「プライバシー」をめぐる「わかりやすさ」が、実は戦後日本において常に勝利を納めてきたと言えるのではないか。だが、逆に今後求められるのはパブリックの復権だと思う。そしてそれは概念定義論争などよりもむしろ、たとえば医療のプラクティカルな課題として取り組み解決していくものだろう。

三宅 啓  INITIATIVE INC.


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