闘病記は「患者-医師」関係を毀損するか?

最近、多数の方々とお目にかかり、当方のTOBYOやHealth2.0や闘病サイトについて訊ねられたり、あるいは意見交換したりする機会が増えてきている。TOBYOは先月ベータ版を公開したが、まだバーティカル検索「TOBYO事典」が限定公開の状態であり、こちらから一切正式の告知活動はしていない。にもかかわらず、多くの方々に関心をもっていただいて訪問を頂戴していることはありがたいことはもちろんだが、正直のところ、当方にとっては予想外の展開でもある。

さて、それら意見交換の中、特に闘病サイトに関して最近よく異口同音に質問されるのは、「闘病サイトによって、患者と医療者の関係が悪化する危険性」という問題に関してである。当方は、当然、闘病サイトの役割をこのブログで積極的に評価して来ているが、このような「問題」を指摘する視点もまた存在するのかと、少々面食らいつつ、その意外感は大きい。

これに関してまず言いたいのは、「関係が悪化するかどうか」にかかわらず、闘病者(患者、家族、友人)が、自分たちの個人的医療体験をインターネットで公開する流れは、もはや誰にも止めることはできないということだ。先週紹介したビデオ「Diabetes Reloaded」中に、「We have VOICES」というフレーズが大きく表示される場面がある。これはある意味でHealth2.0を象徴するフレーズだろう。すなわち闘病者(患者、家族、友人)はかつての「声なき大衆」ではなく、今や自分たちの医療体験を社会に向けて直接発言する「声」を持った「個人」なのだ。とにかく、まずこのような時代認識から始めなければ話にならない。

では、闘病者側が「声」を持つことによって毀損されるような「患者-医師関係」とは、いったい何なのか?。表だって明言されてはいないが、そこには「患者は、黙って唯々諾々と医師に従えばよい」という古めかしい前提が、暗黙裡にほのめかされているのではないのか?。

もちろん闘病者の「声」の中には、時として、医療提供者側に対する手厳しい批判も存在する。怨嗟に近い表現を目にすることもまれにある。だが、医療提供者側はこれらをむしろ積極的に聞き取り、患者側の感情を理解し、なおかつ医療現場改善のための資料として用いるべきだと思う。このあたり、以前紹介した英国の「Patient Opinion」などは、病院名や医師名など固有名詞のついた患者側の苦情を積極的に集めているが、医療機関側はむしろ、それらの資料にお金を払って入手しているくらいだ。

自分たちの医療提供活動が、闘病者側から実際にどのように評価されているのか。これを知るのに、闘病サイトに公開された闘病記ほど恰好の資料はほかにないだろう。これは形式的で中身のない「患者満足度調査」などよりも、はるかに資料価値は高いはずだ。「固有名詞」の問題は以前のエントリでも取り上げたが、これら「固有名詞を出すと角が立つ」みたいな、いかにも日本的な「あいまい選好」思考から、いいかげんもう抜け出すべきだろう。医療を透明性と開放性のもとに位置づけなおす上で、固有名詞は闘病記でどんどん公開すべきだ。

「固有名詞を出せば角が立つ」などというロジックは、今日、国際的に通用しないのではないのか。仮に日本の「医療村」内部でそのような論議があるとすれば、むしろそのことこそ「医療村」の「村」たるゆえんを逆照射しているのではないだろうか。

三宅 啓  INITIATIVE INC.


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