闘病体験と固有名詞

先週、「固有名詞によって事実を可視化する」というエントリを書いたが、たまたまというべきか、その数日後、TOBYOも紹介された日経新聞記事の末尾は次のように結ばれていた。

「ただ、中には科学的根拠の乏しい健康食品の購入を呼び掛けたり、宗教の勧誘をしたりするものもある。病院や医師への評価が断定的に書かれ、トラブルになることも。ライフパレットは「病院名を記載しない」などのルールを設けて定期的にチェックし、ルール違反があれば執筆者に注意を促すという。」(日経新聞、6月1日)

ウェブを論評する場合に使用する常套句であり、いわば「お決まりの警告」と言えるだろう。常套句に頼るという無意識の発想も、そろそろ見直すべき時代になってきているのではないか。しかし、それはそれとして、「闘病記に病院名を記載しない」という「ルール」があることを、この記事で初めて知った。

もちろん、これはよそのサイトにおける「ルール」であり、またどのような「ルール」を設定しようが自由である。だがこの記事を読む限り、あるサイトにおける自主ルールの話が、ある種の一般的な妥当性をもつかのようなニュアンスを帯びながら、提示されているような気がする。そこが引っ掛かった。だから以下は、よそのサイトの自主ルールに対してではなく、あくまでも一般論としての「闘病記と固有名詞」の問題として読んで頂きたい。

当方の立場は先のエントリに述べてある。ウェブ闘病記を闘病者が共有し活用するためには、病院や医療者の名前は出して当然だと考えている。闘病体験はその事実性が命であり、事実性を担保するものは固有名詞である。固有名詞を抜いてしまえば、体験された事実は事実としての価値を失う。

たとえば、すべての新聞記事から固有名詞を抜いてしまえば、いったいどうなるだろうか?。「A国のB首相は、C党の党首D氏に会見を申し入れた」とか「X県のY市の市長Z氏が収賄で逮捕された」とかいった記事を、はたして誰が読むだろうか。つまりニュース価値が消失してしまうのだ。

またこれは患者と医療者の「トラブル」を避けるための配慮であるようだが、闘病記に固有名詞を記載することが「トラブル」と直接的な結びつきがあるという言い方も、「果たしてそうか?」と疑わざるを得ない。むしろこの背景には「患者は医療側を、勝手に特定したり、勝手に評価したりするな」というロジックさえ見え隠れする。

Health2.0が拠って立つ原則のひとつは「Open & Transparency」である。医療現場で患者が体験したひとつひとつの事実が、むしろオープン性と透明性によって可視化されなければならない。これはまた、われわれが次世代医療を構想するときの前提でもあるはずだ。海外の事例を見ても、たとえば英国の「Patient’s Opinion」のように、積極的に患者が体験した事実とその感想を集める試みが多数出てきている。固有名詞を抜いてしまえば、これらの試みは何の成果も生み出せないことになるだろう。

そして患者は、闘病記で医療者側に対し、いつも罵詈雑言を投げているのではない。それは、闘病記を多数読めばわかることである。もちろん医師や看護師や事務員の対応に、鋭い批判が浴びせられることはある。だがこれは「罵声」の類ではなく、医療現場の改善に資する貴重な資料であるはずだ。そして膨大なウェブ闘病記を読んだ当方の経験からすると、むしろ患者側の厚い感謝の念が、病院や医師の名前を出して述べられる方が圧倒的に多いのである。

固有名詞の開示は、患者と医療者を敵対させることではない。ごく少数の「罵声」があるからと言って、これら事実の持つ価値全体を毀損してはならない。

三宅 啓  INITIATIVE INC.


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