届くメッセージ。届かないメッセージ。

もう論じつくされた観のある関西テレビ納豆事件ですが、とにかく非常に多数の人が番組を見て納豆のダイエット効果を信じ、小売店に殺到し、納豆が店頭から大規模に品薄になったことは事実です。この事実を改めて考え直してみると、「リテラシーが低い」などということを通り越して、マスコミから「命令」されるままに生活者側の巨大な意識と行動分岐点

( Leigh Blackall , What we need )
が立ち上がり、そのことが再度「話題」として増幅され拡大し、一通り収束するまで持続現象化するという事態に一般化できそうです。

常態化しているがゆえに、もう当たり前すぎて誰もあえて指摘することさえしない、この強固で巨大かつ情報操作的なマーケティング社会システム。その存在をチラと、納豆事件は一瞬垣間見せてくれたということでしょうか。20世紀後半の奇跡とまで言われた日本の経済成長は、ある意味では、国内市場における、この高度に効率的なマーケティング社会システムを土台として成立したと言えるでしょう。一定の国土と人口量、言語・文化的な均質性など、国内にはこの高度なマーケティング社会システムを成立させる好条件が、もともとそろっていたということもあるでしょう。もちろんこのマーケティング社会システムは経済的なニーズによって作られており、「善悪の彼岸」にあると考えるしかありません。

この社会システムにおいて「届くメッセージ」とは、マスメディアから配信されるメッセージのことであり、「届かないメッセージ」とはどのマスメディアのチャネルにも乗らないもののことです。つまり非常にシンプル。そしてマスメディアは有限な希少資源ですから、誰もがみんなそれを使いメッセージ送出するわけには行きません。「届くメッセージ」と「届かないメッセージ」は、このようにくっきりした断絶線によって分けられていました。

闘病記もそうです。「本」というパッケージに加工すれば、出版チャネルに乗せることができますから、それは「届くメッセージ」になりました。ところが個人日記という情報パッケージで、しかもどのマスメディアチャネルにも乗らないのであれば、それは「届かないメッセージ」にすぎません。

しかしWebの登場によって、マーケティング社会システムも、「届くメッセージ」と「届かないメッセージ」の断絶のありようも大きく変わりました。納豆事件に見るように、マーケティング社会システムのコアとしてのマスメディアのパワーは依然として強力です。ですが、この事件に対してブロゴスフィアで数多くの批判が立ち上がったように、すでにこのシステムを相対化して見るスタンディング・ポイントや領域が社会的に存在しており、そのことが決定的に従来と違う新しい事態を生んでいると思えます。

医療もまたマーケティング社会システムの一翼を担うセクターとして、20世紀半ばに制度設計されました。そしてこの基幹システムが揺らいでいる今日、医療も新たな方向性を模索することになるのではないでしょうか。その際、Webが果たす役割は小さくないでしょう。まず闘病者のメッセージを「届くメッセージ」にすること。そこから始めたいと考えています。

三宅 啓  INITIATIVE INC.


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