映画評:”Sicko” マイケル・ムーア監督

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先週末から日本でも封切られた話題のドキュメンタリー映画「Sicko」である。昨日の朝日新聞朝刊ではこの作品紹介に1ページをあてるなど破格の扱いであり、いかにこの作品が日本でも注目されているかがわかる。

だが朝日のように「問題作品」として取り上げるのではなく、まず、このドキュメンタリーがエンターテインメントとして成功していることに拍手したい。これは重要なことだ。「Sicko」は医療を社会問題として告発しその深刻な現実を切り取ってわれわれ観客に提示しているが、それら「問題」が本来持つ深刻ぶった退屈さとは異質のユーモアと皮肉にあふれたエンターテインメントとして充分に成立している。

素材の吟味、十分に練られたプロット、画面つなぎのスピード感とアクチュアリティ、人物の記号化、過去の映像や音楽など文化シンボルの引用とオマージュ、等々。これら高度な映画技術を総動員して、マイケル・ムーア監督は「現実」を編集しエンターテインメント作品に創り上げることに成功している。まずそこを観て楽しむ作品なのだと思った。

しかし、優れたエンターテインメントとして成立するためには、複雑に入り組んだ現実を「わかりやすい現実」へと整理編集しなければならない。「わかりやすさ」を確保するために物事を単純化し、誰の目にもそれとわかるシンプルなストーリーを提示しなければならない。そしてこれら編集過程を通じて、多面的にして多義的な「現実」はその本来の姿と意味を変えてしまうのである。

「Sicko」で取り上げられた医療をめぐる多数の悲惨な事例は事実であるだろう。だが、これらの事例は作品を貫く身も蓋もない「善悪二元論」によって単純化され、わかりやす過ぎるストーリーを動かし補強する素材として効果的に配列されているという側面を持つことにも注意すべきだ。

米国医療、民間医療保険会社、マネージドケア = 悪
カナダ・英国・フランス医療、国民皆保険制度、国有機関 = 善

このような善悪二元論の単純図式を、ディテールを検証することなく表層的な事例で展開すれば、「現実」を面白い勧善懲悪のストーリーとして消費することが可能となる。つまり「現実」の商品化が可能になるのだ。

実は、この作品で米国医療の悲惨な現状を指弾するような意見をブロゴスフィアでも多数見た。そのほとんどは「米国医療よりも日本のような国民皆保険システムが優れている」ことを再確認するものである。それらに対し当方が違和感を覚えるのは、「この作品に現実のすべてが隈なく示されている」という単純な思い入れをどうして持つことができるのか、という素朴な疑念があるからだ。

また、一緒にこの作品を見たわが女房氏も、映画館を出て「米国医療はケシカラン!」と憤慨していたが、それはマイケル・ムーア氏のある種の術中に見事にはまっただけ、ということになるのかもしれないと思った。

「マイケル・ムーア氏は、アメリカ医療についてほとんど何一つ良い点を見つけられないようだが、他方、外国の国営医療システムについてはほとんど何一つ悪い点を探し出せないようだ。カナダや英国では医師に会うために何か月も待たされるし、両国のシステムでは無視されている病人がいることや、実際にはすべての国で医療コストが上昇していることなどの事実認識が欠落しているのだ。」
(The New York Times,By PHILIP M. BOFFEY,July 5, 2007)

「これらのストーリーがどの程度真実であるか、これらの不正がどの程度一般的であるかを知ることはむつかしい。ムーア氏は観客に、判断するに足る十分なディテールを与えていない。ストーリーは被害者の観点から語られており、保険会社の観点は一つもなく、これらの医療拒否が適切であったかどうかを知っているはずの医師の観点も十分には示されていない」。(同上)

「(キューバの例では)9.11関係者が行ったハバナ病院は、報道によると政府高官や外国人向けの病院であり、とてもキューバ一般大衆のための医療を代表しているとは言えない」、「ムーア氏は、WHOの医療システム評価ランクで米国が37位であり、かろうじてスロベニアの一つ上のランクであることを重要視している。だが彼は米国がキューバより2つ上位のランクであることは述べていない」。(同上)

ニューヨークタイムスでは上記のような批判記事が掲載された。だが、ここまで事実と作品の矛盾を指摘するのも、これはこれで何か違うような気もするのだ。この作品で語られていることが果たしてどこまで事実かということではなく、米国医療を他国医療と制度比較することによって、現在の米国医療が唯一無二の存在ではなく別の選択肢もあることに観客のアテンションを向けたとすれば、それだけでこの作品は評価に値するのではないか。

そして、そのことを良質なエンターテインメントとして実現し得た点がマイケル・ムーア監督の素晴らしさなのだろう。

三宅 啓  INITIATIVE INC.


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