書評:「フラット革命」

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昨春発表された「Google、既存のビジネスを破壊する」(文春新書)以来、佐々木俊尚氏の2.0関係の著作は出るたびにすべて読んできたが、本書は佐々木氏がこの間論考してきた諸問題を、ある意味で中間的に集大成する労作。

■「フラット革命」 佐々木俊尚 著、講談社

まず、この書名を見て「フラット化する世界」(トーマス・フリードマン)を想起する向きも多いだろう。フリードマンが提起した新しい世界像と共鳴しながら、本書はさらに日本の「戦後社会」を貫徹してきた同質的なゲマインシャフト崩壊後に出現した新たな社会の光景を、インターネットを結節点として、マスメディア、ジャーナリズム、政治、社会、文学、公共性等、様々な現実を切り出して見せてくれる。

本書と類書を分けるものは何かと言えば、それは「文学的な想像力によるアプローチ」ではないか。このようなジャンルの書籍で、江藤淳や三島由紀夫が言及されるのを初めて目にした。たとえば戦後企業社会の解体と再編についてだが、従来ならば経済学や経営論のアプローチでバブル以降の状況を小器用に分析したものを読めば、それなりの納得感を得られたのである。

だが、一貫して「戦後」という言説空間を領していたある種の空気や雰囲気を改めて対象化し批判するとすれば、それはインターネットによって現出した「現在」を書きとめるだけでは足らず、江藤淳や三島由紀夫の語った言葉へと遡及せざるを得ないということか。

ではこの数十年、何度もその終焉を繰り返し宣告されてきた「戦後」に、ここでまた改めてその「崩壊」を、あるいは「フラット化」を確認するということはどういうことなのか。またそれは、時の権力が語る「戦後レジームからの脱却」という言説と共鳴するのかしないのか。

そもそも「終わった、終わった」と何回も言われ、そのたびにいつのまにか復活蘇生するような「戦後」に、いついかなる形で、われわれは真に引導を渡すことができるのだろうか。それとも「戦後は終わった」という言説自体が「戦後」を延命させるような逆説を含むのであろうか。

そんなことを考えながら本書を読んだ。主としてマスコミと企業によって作られてきた「安心と隷属の疑似共同体」が崩壊し、共同体の構成人員は「よるべなき人々」として漂流するような光景が、本書が指し示す戦後体制崩壊後の日本社会の姿だ。日本社会のこれら今の実像と、かつて「戦後」という理念によって形作られた制度や秩序との乖離が、だれの目にもはっきりと見え始めている。そしてこの乖離現象はもう誰も止めることはできず、インターネットはこれを一層促進するファクターとなっている。好むと好まざるとにかかわらず。

ところで「戦後レジームからの脱却」だが、これまで「戦後」という理念を別の理念で終わらせる試みは、ことごとく失敗してきた。だが安倍氏には、どうやら明確な対置理念の用意もないようだ。

三宅 啓  INITIATIVE INC.


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