書評:「医療の限界」(小松秀樹、新潮新書)

genkai昨年、「立ち去り型サボタージュ」という衝撃的な言葉で話題になった「医療崩壊」(朝日新聞社)。その著者の新著が出た。「慈恵医大青戸病院事件」(日本経済評論社)以来、医療現場の当事者として、医療事故をはじめ、今日のさまざまな医療問題に精緻な考察を示してくれてきた著者だけに本書に対する期待も大きかったが、結論から言えば、むなしくも期待は裏切られた。期待は失望の母である。

本書を読み進むに連れ、さまざまに疑問が立ち上がり、肩すかしを食らい、もやもやした不快感を残して読了となった。同時に医療者と生活者・大衆との間にある懸隔の大きさを、改めて思い知らされたような気がした。

◆目次◆
はじめに
第一章 死生観と医療の不確実性
第二章 無謬からの脱却
第三章 医療と司法
第四章 医療の現場で~虎の門病院での取り組み
第五章 医療における教育、評価、人事
第六章 公共財と通常財
第七章 医療崩壊を防げるか
あとがきに代えて—-「厚労省に望むこと」

本書の構成は上記のようになっているが、特に第一章、第六章、第七章あたりに、大きな疑問を感じた。本書が全体として、ややもすると散漫で焦点が結び切れていないのも、これらの章に問題があるためではないかと思われる。当方は、これらの章にまったく何も納得し共感することができなかったのみならず、一般の反発さえ喚起しかねないとの危うささえ感じたのである。

たとえば第一章である。生活者や患者の「死生観」を問うのは自由だが、はたして「武士道」に描かれた死生観を今日の医療に関連して持ち出す必要があるだろうか。また今日の生活者大衆に向けて、「武士道」で唱えられている「死ぬことの原理」を「お説教」することに、一体いかほどの意味があるのか疑問を禁じ得なかったのだ。

当方、今日の医療が抱えるさまざまな問題に、著者のように「日本人の死生観の変化」を対置することに反対する。医療が不確実なものであり、100%の安全を保証するものではないことは著者が言うとおりだ。だが、だからといって生活者大衆の「安全、安心」に対する切実な願いや根源的なニーズを否定してしまって良いはずがない。マズローの欲求五段階説を挙げるまでもなく、人間にとって生存や安全への欲求は根元的なものであり、誰も「死ぬ」ために病院へ行く者はいないのだ。生活者大衆の生存や安全に対するニーズを粗雑に扱うべきではないと強く感じた。

次に第六章であるが、結局、米国建国時のピューリタン思想や日本近世の「村社会」論が、いかにも中途半端な扱いで脈絡もなく提示されているので、一体、何を言いたいのかがわからない。また新古典派批判を宇沢弘文氏の説に基づいて展開しているが、これらは今日の社会保障財政の危機的状況認識を欠き説得力は弱い。医療費増額は、それ自体はまことに結構なことだ。だが、その財源をどこに求めるのか?。日医が主張するように「年金」から医療費を持ち出すのか?。

そして第七章では「『全体主義の起源』と『大衆の反逆』」という節に、当方の本書全体に対する違和感が要約されている。ここでハンナ・アーレントの「全体主義の起源」に言及しながら、結局、他人(トクビル)の言葉を孫引きするような記述方法がまず理解しかねるのだが、それはそれとして、どうやら著者はここでオルテガとセットで「大衆批判」を展開する意図があるようだ。

「大衆は『現在のあるがままの自分に満足』しており、『しいてうぬぼれる必要もなく、ただ天真爛漫に、自分のうちに見いだすもののすべて、つまり、意見、欲求、好みなどをこの世において最も自然なものと考え、良いものとみなす傾向をもつ』のです。その原因を、『いかなるものもまたいかなる人も、彼に対して、彼自身が二級の人間であり、きわめて限られた能力しかもっておらず、彼の自分自身に対するあのような自己評価の根拠となっている幅広さと満足感を彼の生に与えている組織そのものを、自ら創造することも維持することもできない人間であることを自覚するよう強制しないから』だと厳しい指摘をしています。」(同書208ページ)

「こうした大衆に対し、オルテガは貴族を対峙させます。世襲の身分の貴族ではありません。オルテガの言う貴族とは『つねに自己を超克し、おのれの義務としおのれに対する要求として強く自覚しているものに向かって、既成の自己を超えてゆく態度をもっている勇敢な生」です。これに対し、大衆を、『凡俗で生気のない生、つまり静止したままで自己の中に閉じこもり、外部の力によって自己の外に出ることを強制されないかぎり永遠の逼迫を申し渡されている生』と対比してみせます。」(同上)

長々と引用したが、こうまであからさまに「貴族的選良思想」、そしてそれと対をなす鼻持ちならない「大衆蔑視」を独白されたのでは身も蓋もないではないか。実は当方、ここまで読んできて馬鹿馬鹿しくなってしまった。古くさい「エリート・大衆二元論」へ収斂するような「医療状況論」を聞かされたのでは、たまらないではないか。

言うまでもなく、この大衆社会において患者は「大衆」である。好むと好まざるとに関わらず、医療は患者すなわち大衆と向き合わなければならない。どうやら宇沢弘文氏のように、この著者もまた旧制高校的なエリート・リベラルアーツを懐古的に賞揚する気配がある。だがそもそも、そのような「グロテスクな教養主義」とアナクロニズムが、今日の大衆と社会を説得することができるだろうか。

この著者が医療現場の実践者として医療の現実を語るときは、誰もが真剣に耳を傾けるだろう。だが、要らぬ「世界観」や「思想」を饒舌に語り出すとき、反発さえ喚起しかねないだろう。少なくとも私は、自分のかかりつけ医が「武士道」を賞揚し、「死ぬこと」を語るようなことがあれば、即刻診察室を退散するに違いない。

最後に言っておきたいが、上記オルテガ引用中、『凡俗で生気のない生、つまり静止したままで自己の中に閉じこもり、外部の力によって自己の外に出ることを強制されないかぎり永遠の逼迫を申し渡されている生』というくだりがある。大衆の「生」を侮蔑したくだりがある。だが著者とは違い当方にとっては、これは「私の実存」であり、「この世の人々の生」であるにちがいないのだ。

三宅 啓  INITIATIVE INC.


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