闘病記とPHRは交差するか

TwoTrains

昨日のエントリーでも触れましたが、ますます闘病記とPHRの関係に興味が湧いてきました。当方、闘病記についてさまざまに考察をめぐらせ、結局、「ソーシャルメディアとしての闘病記」という仮説に到達したわけです。このあたりは、以前のエントリーでも触れました。また、この仮説から出発したアイデアをもとに、事業化しようとしているのがTOBYOプロジェクトです。

さて、「医療のIT化」や「医療情報のデジタル化」という問題は、TOBYOにとって、いわば隣接する関心領域に属するものですが、最近の海外の動向をウォッチングしたり考えたりしているうちに、TOBYO事業化と通底する水脈をいくつか掘り当てたような気がしています。しかし、これはまだ直感的なイメージに過ぎませんが。

ウェブ闘病記も、もともとは「患者日記」という個人的な記録として出発しています。しかし、通常の紙に書く日記とは違い、秘匿するものではなく社会に対して公開し共有する記録という性格を持っていたのです。さらにそれは、ウエブサイトの柔軟性と拡張性により、日記のみならず他の闘病上の情報まで記録して行ったのです。病気についての医学的情報、自己の検査データ、医療費用メモ、薬物履歴、医療機関履歴、参考文献レビューなど、さまざまな情報がウェブ闘病記に付け加えられていきました。

そのように拡張され、闘病にかかわる「総合性」を獲得するようになると、それは「闘病記」という狭い括りではもはや呼び得ず、たとえば「闘病サイト」など新たなジャンル定義を必要とするまでにいたりました。

このことをPHRなどの社会的導入などとあわせ、改めて考えて見ると、どうやら日本で独自の発展をしてきたウェブ闘病記は、将来PHRと合体していく道が見えているような気がします。別の言い方をすれば「ウェブ闘病記はPHRだ」となるかもしれません。

ウェブ闘病記とPHR。この二つは別々の出自を持っています。ウェブ闘病記は、闘病者の闘病アクションの一つの形態であり、それはもとより「記録」というスタティックな性質よりも、エモーショナルな「発露」かつダイナミックな「表現」、という積極的な行動形式を出自として持っていました。対してPHRは、むしろ散逸し分散する自己の闘病記録を一箇所にアグリゲートし、闘病者のコントロール下に置くことによって闘病者エンパワーメントを目指すものであり、「闘病ベースキャンプ」とでも呼ぶべき拠点性を出自に持つものと思われます。

「行動形式」と「拠点性」。この二つの違う種類の出自をもつ闘病記とPHRは、別個の道筋で発展してきましたが、やがてそれらは交差し一本化する道であるように見えてきました。しかし反面、それでも容易に一本化し得ない可能性も残っているのです。それは「セキュリティとプライバシー」と「体験と情報の共有」をめぐる相克が、この両者を画然と分けている現実です。

PHRはアメリカの現状を見ても、「セキュリティとプライバシー」に議論の焦点がほぼ集中しています。かたやウェブ闘病記のほうは「体験と情報の共有」を求めています。「表現、行動形式」と「拠点性」を合わせて収容する方法論はいくつもあるでしょう。しかし、「セキュリティとプライバシー」論と「体験と情報の共有」論の対立を調停するために、われわれはどのような新しいWeb観や医療観を創り出すべきなのでしょうか。
課題は多いといわねばなりません。しかしそれでも「闘病記はPHRだ」と言ってしまいたい衝動は、だんだんと強くなってきています。

(photo by The Jamoker)

三宅 啓  INITIATIVE INC.


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