医療コミュニケーションと個人的体験

zakkicho

昨夜NHK教育で「ともに生きる▽患者と医師のコミュニケーション~心通う医療のために」という2時間ものの特集番組がありました。実は、開始してから1時間ほど経ってから見始めたのですが、出演タレントが「あーだ、こーだ」とコメントするのに辟易し、番組に対する興味を失いました。番組の雰囲気に、反射的な拒否反応をしてしまったかのようでした。

この番組が扱っていたのは、どうやら患者と医療者とのコミュニケーションの問題であったようです。この医療コミュニケーションの問題は、先日のエントリーでも取り上げましたが、ここ数年、各方面で話題になっています。先日のエントリーでは患者側のコミュニケーション・スキルの話題を拾いましたが、医療者向けのコミュニケーション・スキル向上教育トレーニングやコンサル・サービスも存在します。

この医療コミュニケーション。表層的には営業トーク・スキルであるかのような理解もできるし、また、患者と医療者の関係性の考察へと深めていく道もあり、なかなか豊富なアプローチが用意されていると言えます。つまり、このような「コミュニケーションの問題」という「問題」の立て方をすれば、医療のある側面を非常に手際よくピックアップし説明できるのです。

また、「コミュニケーションの問題」は何も医療だけの専売特許ではありません。他の分野でも、例えば日常の仕事上のトラブルでも、「コミュニケーションが良くなかったんだ」という言い方は非常にしばしば耳にするところです。どのようなシリアスなトラブルであっても、その原因解明をシビアに徹底するよりは、とりあえず「コミュニケーションの問題」と言っておけば、コトはスムーズにシコリなく落着へと納めることが出来るのです。第一、この方が「悪者」を特定するための疲労から救われるというものです。

このようにコトはコミュニケーション・スキルの優劣へと単純化されるのですが、この過程で切り捨てられる事々は少なくありません。医療を問題にするなら、特にその切り捨てられたものを丁寧に拾い上げる作業が必要だのではないかと、当方は密かに考えているのです。ですから、昨夜のNHK教育の番組などに、つい反発してしまうことになります。

ある意味で患者と医療者の関係性を、「決して両者の視線は交差することはない」と冷ややかにとらえたのは、ピッカー研究所の”Through The Patient’s Eyes”が最初だったのではないでしょうか。この本の数章は明らかに、「医療人類学」のようなまなざしで医療をとらえていると思いました。なかでも「医療者は『患者を疾患をもった存在』として見ている。患者の身体を透して『疾患』だけを見ている」、「患者は『病気』を自分の全人格性として見ている」という鮮やかな対比が、両者の異質性を不足なく描いています。

患者と医療者の間には、渡るに渡れぬ断絶があるという現実を直視した上で、じゃどうするのか、と問題を立て直したのがピッカーでした。コミュニケーションの問題以上に、もっと困難な現実があることが提起されていたのです。

闘病記を読むと、医師や見舞客との「意志疎通の不可能性」ということを闘病者が表白する文章を、何度も目にしました。見舞客の「がんばれ」という言葉に対し、また医師の激励の言葉に対し、「あなた達は健康なんだ。この病気に罹っている自分の気持ちをわかるわけがない。」と突き放している場面を何度か目にしました。重篤な闘病者ほどこのような心情が闘病記に吐露されるのを見ました。

「コミュニケーションの問題」は確かに「問題」ではあるでしょうが、このような一般化は現実を矮小化していると言えるし、もっとパーソナルな個別の問題として病気や闘病者を見ていく必要があるのではないかと考えたりします。

人間は誰でも、いつか、何らかの病気に罹ります。この意味で「病気」は人間全体、人類全体が共有するものと言えるでしょう。しかし、「その病気」に罹っているのは特定の一個人の「その人」です。この意味では「病気」は他人が代わって体験できない、個人的で絶対的な体験であるのです。

三宅 啓  INITIATIVE INC.


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